2014年9月7日日曜日

Copy:治安維持法――なぜ政党政治は「悪法」を生んだか

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治安維持法――なぜ政党政治は「悪法」を生んだか(その1)

治安維持法 - なぜ政党政治は「悪法」を生んだか (中公新書)  
中澤 俊輔
中央公論新社

 2012/6/22
Amazon.co.jpで詳細を見る

2013-12-04 
  特定秘密保護法参院採決が間近に迫っている中、我々は歴史から何を学べるのか?
*11925年に成立した治安維持法につきまとう「言論の自由を制限し、戦前の反体制派を弾圧した稀代の悪法」というイメージから一度距離をおいて、その成立・改正・運用を扱った本を読みました。
  「自由と民主主義を守るためには何が必要か」という問いに、治安維持法という歴史はどういう答えを提示してくれるのでしょうか。 
長くなりそうなのでいくつかに分けます。
第1回はその成立過程について、本書1,2章をもとにまとめてみました。

 ・ 内務省司法省、政友会、憲政会革新倶楽部

 戦前の内務省行政警察的な側面が強く、「朝憲紊乱」「安寧秩序紊乱」といった曖昧な基準に基づいて集会の解散や結社の禁止という行政処分を予防的に下すことができました。
故に筆者は、そのような行政処分と重複する新たな取締法の制定について内務省消極的であったとします。
もう一つの主管官庁である司法省においては、「犯罪を裁くには明確な法的根拠に則るべきだ」という法の支配の概念が根強く存在していました。
また伊藤博文により組織された立憲政友会は、外来思想に対抗する手段として教育や宗教の力で国民の思想を健全な方向へと導く思想善導を掲げ、取締法の制定にも積極的でした。
一方の憲政会は「思想善導」を政友会よりも早く打ち出していたものの、取締法の制定には反対の立場だったとされます。
そして護憲三派内閣最後の1党である革新倶楽部は、犬養毅「思想には思想をもって」という方針のもと、言論・出版・集会の自由を主張していました。
このような各主体が存在していた中で、治安維持法はなぜ成立したのでしょうか?
その問いにいく前に筆者は治安維持法以前の取締法についても言及しています。


 結社に対する取り締まり、その始まりは明治期における民権運動とそれを担った政党に対するものでした。
1880年の集会条例を始めとして、保安条例(1887年)、集会及政社法(1890年)、出版条例(1869年)、新聞紙条例(1875年)が制定されていきます。
治安維持法以前に本格的に結社を規制した法律として1900年の治安警察法がありますが、結社の禁止処分は行政処分にとどまり、最も重い秘密結社罪でも最大1年の軽禁錮が課されるに過ぎませんでした。
抑止力としては弱体であり、それ故に司法省は明確な規制根拠としての新たな取締法の制定を希求したのです。


  • 相次ぐ思想事件、対外環境の変化、そして過激社会運動取締法案の挫折と教訓

 法律的な空白に加えて、国内における思想状況の変化や対外環境の変化も治安維持法成立への駆動因となりました。
1910年大逆事件1920年の森戸事件などの社会主義を背景とした思想事件や、1918年の米騒動という社会の不安定性を露にする事件が相次いで発生したのです。
また1919年にはコミンテルンが成立し、共産主義に基づく世界革命の可能性が現実味を帯びていきました。
このような状況に対して、原内閣社会主義団体の監視強化、労働運動に対する融和、そして思想善導といった対策を実施しますが成果は乏しいものでした。
その手詰まり感を背景として、1921年には過激社会運動取締法案が検討されるに至ります。
既存の法律では共産主義者による国内での思想宣伝行為に対処できず、それを補うことを目的として成立が企図されました。
しかしこの法案は貴族院において「朝憲紊乱」や「宣伝」の定義が曖昧であるとの批判(事実上の牛歩戦術)にさらされた挙げ句、国会閉会により廃案となります。
しかしこのような失敗は、まさに治安維持法成立のために必要な条件と表裏一体であったと筆者は指摘します。
すなわち、法案から曖昧な文言及び宣伝罪を排し、内務省司法省が協力し、両院を説得し、政友会と憲政会包摂する政権があることこそが治安維持法成立の必須条件であり、成立時の護憲三派内閣はまさにこれらの条件を満たしていたのです。


 1920年代共産主義社会主義団体の活動活発化の最中で起きたのが関東大震災でした。
緊急勅令によって治安維持令が施行され、図らずも過激社会運動取締法案に類似の規制が実現することになります。
勅令はあくまでも緊急のものという認識が司法省にはありましたが、その中で決定打となったのが1923年の虎ノ門事件でした。
それまでの社会主義勢力の伸長やソ連からの思想の流入に加えて、普通選挙の施行で想定される社会主義勢力の一層の勢力拡大とテロリズムの可能性が法律策定の理由となったのです。

 さて、1925年治安維持法の成立についてはこれまで二つの有力説が提示されてきました。
一つは男子普通選挙を認める引き換えに「ムチ」としての治安維持法が制定されたとするもの、
もう一つは同年の日ソ基本条約締結によるソ連との国交樹立から想定されたコミンテルンによる共産主義思想の宣伝を警戒したとするものです。
しかし本書はそれらの説に一定の意義を認めた上で、
憲政会と政友会が連立し衆議院貴族院を糾合することが可能になったことが最大の成立要因であると指摘します。

 司法省は当初、治安維持法で「宣伝」を取り締まることを目指していましたが、大正デモクラシーの時代にあっては言論の自由を直接取り締まることは困難を伴ったため、最終的に宣伝の拠点となる結社を規制することで同様の効果を得ようとしました。 
特に憲政会は自ら過激社会運動取締法に反対した経緯もあり、共産主義思想の宣伝についてはソ連との間でそれを取り締まる協定を結べばよいと考えていました。
日ソ基本条約第5条にいわゆる「宣伝禁止条項」が挿入されたため、加藤内閣治安維持法を「結社を取り締まる法律」として成立させる大義名分を得ることになります。

  • 審議、そして成立

 1925年2月19日、治安維持法案は第50回議会衆議院に緊急上程されます。審議の過程では言論・出版の自由侵害の可能性が指摘されたのに加えて、過激社会運動取締法案の時と同様に国体変革」「政体変革」「私有財産制度否認」といった言葉の定義が議論になりました。
これらの言葉の定義が明確化されない限りは、合法的な政治改革がどこまで許容されるのかもまた判然とせず、政党活動や議会を通じた立法活動にすら影響を及ぼすとの危惧があったからです。

治安維持法第1条

國体ヲ變革シ又ハ私有財產制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス
前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス


 審議の結果第1条にあった「政体」という言葉は削除され、議会を通じた合法的な政治変革が取り締まられる恐れは減少しました。
さらに清瀬一郎は、私有財産制度の否認について社会主義的な政策がどこまで合法と認められるのかを詳らかにしようとしましたが、
内務省の山岡刑事局長は統一的な基準を示すことはありませんでした。
若槻内相は「言論文章の自由の尊重」を強調し、政府答弁はその点では一貫したものでした。

 1925年3月5日、衆議院本会議治安維持法は可決され貴族院に送付されます。
貴族院での審議についても、別件の貴族院改革につき憲政会との交渉の糸口を模索していた最大会派の研究会が摩擦を避けたため、過激社会運動取締法の時のように貴族院がストップをかけることはありませんでした。
同年3月19日貴族院で法案可決、4月22日には公布されました。



 筆者は治安維持法成立の最大の要因は護憲三派内閣であったとします。
「アメとムチ」説も「コミンテルン脅威説」も一定の正しさは持ち合わせているものの、そのような「理由」を背景とした上でなぜ議会がこれを可決できたのかというところに着目していると言えます。
それはつまり、
憲政会と政友会の連立による議会での多数派形成
政党を通じた司法省内務省の架橋
③「宣伝ではなく結社を取り締まる法律」と位置づけることにより各党が「言論の自由」は確保されるとの共通の基盤を形成した
という3つの条件が重なって可能になったのです。
また筆者は1925年段階における治安維持法の問題点として、
国体変革」という言葉の定義が曖昧でありその後解釈が書き換えられて拡大適用されたこと、
結社の自由な活動を萎縮させる効果をもったことなどを指摘しています。

*1:「現在における教訓とすべし」という意味で歴史を有用化することには若干のためらいもあることも付記しておきます。

治安維持法――なぜ政党政治は「悪法」を生んだか(その2)  

 その1では1925年の成立に至るまでの過程をまとめましたが、本記事(その2)では1940年頃までの運用と改正についてまとめたいと思います。
成立当時の政権は「言論文章の自由の尊重」(内相・若槻礼次郎)をうたっており、宣伝ではなく結社を取り締まるものとして制定された同法ですが、運用の実態はいかなるものだったのでしょうか?
そしてなぜ改正を必要としたのでしょうか?
第3章から第5章までをまとめました。
 
  • 赤化宣伝

 
結社を取り締まる法律として成立した治安維持法は、本来赤化宣伝を直接取り締まるものではありませんでした。
日ソ基本条約には「宣伝禁止条項」が含まれていましたが、
同条項はあくまでも「政府の命令を受けた人間と政府から財政支援を受けた団体」が宣伝をすることを禁止したに過ぎず、
コミンテルンが事実上ソ連政府と密接な関係をもっていたにも関わらず、その宣伝行為をも取り締まることは困難でした。
まして幣原協調外交のもとでは、宣伝禁止条項の厳格な運用を達成することもできず、同条項は条約締結から1年を待たずに形骸化します。
その結果、当局は治安維持法適用対象拡大に動くことになります。



1925年11月、同志社大学軍事教育に反対するビラがまかれ、京都府特高課は京都地裁検事局検事正と協議の上で京都大学社会科学研究会の一斉捜索を決定します。
内務省は若い学生の検挙に消極的でしたが、司法省は本件への治安維持法適用に積極姿勢を見せていました。
予審の結果、本件では治安維持法第1条によるところの「結社罪」ではなく、第2条で定義されている「協議罪」*1適用が争われることになります。
結果としては第一審において、「私有財産制度否認」を目的とした「協議罪」で有罪が宣告されます。
治安維持法はその最初の事案において、投書の目的である「結社を取り締まる法律」としては機能しなかったのです。



日本共産党1925年上海会議でコミンテルンから再建を指示され、「君主制の廃止」をうたった27テーゼに基づいて活動を展開していきます。
テーゼ君主制の廃止」を明記していたため、それまで曖昧だった共産主義が「国体変革」を禁止する治安維持法と一直線に接続されることになります。
1928年の第1回男子普通選挙において、共産党は11名の党員を労農党から立候補させます。
この公然とした活動は内務省を刺激し、治安維持法第1条の「結社罪」適用を目的とした全国一斉検挙につながることになります。



 1928年3月15日、全国で1600名が一斉に検挙されます。
ところが、共産党事務局長の家から押収された名簿に記載されていたのは409名であり、検挙者の大半は共産党に加入していないことが発覚します。
さらに第1条の結社罪の定義においては、結社には「情ヲ知リテ」すなわち「結社の目的を知った上で」加入していることが要件となっており、名簿に名前があっても結社(加入)罪が成立しないケースさえありました。
最終的な起訴数は488名となりましたが、治安維持法はその最初の大規模検挙から、怪しい容疑者を手当たり次第検挙するという「粗雑な運用」を許してしまったのです。



 
この時の改正は2つの目的を持っていました。
一つは結社罪の最高刑を死刑としたこと*2
もう一つは目的遂行罪(結社に加入していなくても、国体変革等を目指す結社の目的に寄与する行動を罰するもの)の設定でした。
特に後者について、改正後に拡大適用されて猛威を振るうことになります。

 
3.15事件は治安維持法適用という意味では「失敗」だったとはいえ、共産主義勢力の伸長に対して政府危機感を抱くには十分なものでした。
田中内閣の原司法相と小川鉄道相は同事件を受けて治安維持法改正に積極的に動くことになります。
1928年4月25日、治安維持法改正案は内閣に提出され、次いで第55特別議会で議論されることになります。
大きな問題を孕んでいた目的遂行罪についてはほとんど議論されなかったものの、会期が短かったこともあって改正案は審議未了で廃案となります。

 
しかし、原法相は諦めませんでした。
議会の承認を得ずに政府が制定する「緊急勅令*3を抜け道としたのです。
その要件に鑑みて明らかな濫用であり、田中内閣議会軽視との批判を受けますが、枢密院審査委員会第6回審査会において同勅令は5対3の僅差で可決されます。
さらに本会議での審議が行われますが、このとき昭和天皇枢密院史上初めて「如何程遅くなりても差支なし、議事を延行すべし」との要望を出しており、表決が1日延ばされました。
しかしながら、最終的に反対5賛成24の賛成多数で緊急勅令は可決されます。
そして事後の議会では目的遂行罪や法案改正以前に取り締まりを充実させることなどが議論されますが、議会多数を占める政友会は討議を打ち切り、賛成249反対170で事後承認が成立します。

(当ブログのコメント:
1928年の第55議会(5月6日閉会)で、特高警察の大拡充の追加予算が認められ、それとともに、思想検察(裁判所のチェックを外して、独自権限で犯人の逮捕状を発行できる機関)の創設の経費が認められる。(「思想検事」2000年9月20日発行(荻野富士夫著)34ページ))

----1929年2月末の日本の国会での議論と暗殺-----
学生運動取締に関する質問
 山本宣治
昭和四年(1929年)二月二十一日予算委員会

 私の質問は文部省所管の歳出に関して、いわゆる思想善導費の諸項目に関しての質問であります。

(当ブログのコメント:「思想善導」の言葉の意味は、戦後にとなえられている「青少年健全育成」とほぼ同じ意味です。) 

これに関しては既に川崎氏、原氏、又椎尾博士これらの諸委員からお尋ねに依りまして、
これに当局がお答えになっておりまするから、
それは詳細すでに熟読いたしまして、重複の点を全部省きまして、
私はついこのほどまで京都帝国大学に職を奉じておった関係上、こうした問題の内容に関して、具体的事実を得る便宜があった。
そうした関係上事実をあげて、それに対する文部当局の所見或いは対策を承りたいと思うのであります。
それで一月二十五日の本会議でありましたが、それに文部大臣は浅原健三君の質問に答えるに、こういう言葉をもってしておられておる。
そのまま読みますると
「浅原君より文部大臣に向いまして、警官が神聖なる教場に乱入をいたして制服制帽のままで学生を拉致《らっち》したというような事があるが、
それに対して文部大臣の権威を冒涜するようなことはないかというような、
きわめて私に対してはご深切なる御質問でありました。
しかし私の受けておりまする所によりますると、さようなことについては何らの報告がございませぬ。
又私はさような事のないことを信じておりまするから、どうかさようにご承知を顧います」
かようにお答えになっておるのでありまするが、
質問当時におきましてはそれより遡りまして以前に東京帝国大学の校内において、教室において、聴講中の帝大生が教室の中から警察へ引致された。
或いは正門の前において構内に入ろうとする学生があった。
それを正門の傍で警官が検束したという風な事実を浅原君は指しておったものであります。
一月二十五日以前の事件は私は申しませぬ。
その後において今申したような事実があったのであります。
去る二月一日の事であります。
金沢の第四高等学校文科三年生宮島隅夫および野田薪三、滋賀政夫の三名は授業中突如広阪警察署に引致されて、一応取調べの上に帰宅せしめられたという事実があります。
この三名の人の引張られたのは昨年軍事教練反対運動の急先鋒となり、又最近は軍事教練の費用の内容を明らかにせよと当局に迫った為に、常に不穏分子として当局から睨まれたからであるという風なことなのでありますが、
こういう風なことで文部省の直轄学校の校内に、しかも授業中に警察官が闖入して学生を引致するという風なことはこれは当局は常態であるとお考えになりますか、
まずその辺の御所見を伺いたい。  

◇勝田国務大臣
 山本君のお尋ねでありまするが、その件については未だどういう実際の状況であったかという報告は得ておりませぬが、
しかし私はさような事はないと思います。
これは教場で授業しおる所へそこに警官が闖入して、それをすぐ拉致するというような事柄でなくして、
或いは教場において授業を受けつつあったのかも知れませぬが、
これをその外に呼んで、そうしてそれを拉致したというようなことと私は信じておる。
又私などの報告を得ておる所によりましても、学校の講堂だとか、教室だとか、そういう中に警官が闖入して生徒を拉致して行くということはどうもないようであります。
それだけお答えしておきます。
・・・・・
・・・・・ 
 今申しておりまするのは、現在の「ブルジョア」教育の最も徹底した最高学府における問題であります、
そうしてそこに学ぶ人は、この「ブルジョア」の子弟の中で最も優秀なる人のみであります。
そこへ来るまでに小学中学において修身と倫理の話はうんと聴いて来て、
思想善導に関しては最も完全なる条件を持ち、最も恵まれた環境の中に育って来て、
なおこうした形式の訓育を必要とするという点に、
文部当局は何か自信の欠乏をお感じにはならないか、
この点に関して、大学内においても事実思想善導の完全に行われておるというのは
――これは地方の高等学校と大都市の高等学校を比べて見ますというと、
文部当局から見れば、
大都市においては「ルーズ」になっておる。
地方の高等学校の方が中央政府の指令が行き届いて行われておる
という風にお考えになるか知れませぬが、
帝国大学の進歩的な職員の中には決して地方高等学校の「ゲートル」を穿かせて訓練を盛んに行い、
そうして横文字の本は精々読ませないように、
新刊雑誌はまるきり読ませないというような風にした教育を決して歓迎するのではない。

それは現に中央の大学の中には、学校は指して申しませぬが、

僻遠の地方の学校の出身者は一高とか三高のような高等学校の出身者と、その素養においては二年三年の差異を見ておるというような実情であります。

この思想善導というものは何を目標としておるかといえば、
即ち危険思想にかぶれないで、そうしてできるだけ学校当局者の統治の容易いような、毒にもならなければ薬にもならぬものを目標として立っておるように見受けらるるのでありますが、
これに関して弘前高等学校の最近の「ストライキ」の状勢に関して今お話になった以外に、
只今「ストライキ」が起きておるという実情が目の前にある。
学校の当事者が生徒に委ねられたその金を横領して何か使途不明の所に使い果した。
こういう事態の前に学生はその校長のやった非違を糺弾してはいけないという風にお考えになるのでありますか。
「ストライキ」に関する所見を伺いたい。

〔「答弁の必要なし」
「大臣の発言を抑圧する必要はない」
と叫びその他発言するもの多し〕

(当ブログのコメント:この議会の質の悪い「やじ」体質は2014年の東京都議会のセクハラやじに引き継がれていますね。
日本のデモクラシーは今に至っても脆弱だと思います。
こういう日本では、とてもスウェーデンのような良い国にはなれない。日本では、今後もデモクラシーを自らのものにする思想作りを、少しづつ体でおぼえて身に付ける地道な努力が必要だと思います。
少なくとも、日本の庶民は、戦後にアメリカから与えられたデモクラシーに大変満足しているように思いますので。)

◇工藤委員 議事進行です
――これはお答えになった方がよろしいかと考えるのですが、
この思想善導に最も影響のあるのは、やはり「ストライキ」などの問題と思います。
即ち師弟の間の問題がわが国の道徳の一の根底をなすのですから、
これに対して文教の重任にある当局大臣は、
あなたがたはどうか知らぬが、
政府はこう考えておるというてしたがってこれに善処する方法をかような席で発表するということは、もっとも適当なる機会を得たのではないかと思いますから、
議事進行の上に置いて文部大臣の所見を発表することを要求いたします。

 只今の質問の要点が確かにお分りにならないと思いますから、簡単に反復いたします。
学校当事者が非違を行うたという実跡がある場合に、学生生徒はそれを糺弾してはいけないものであるか
これをお伺いいたします。 

◇勝田国務大臣
 学校の当局者が非違を行うた場合に、これを匡正する途は種々備っております。
しかして学生といたしましてこれを直接に糺弾するが如きはこれを認むることは出来ませぬ
・・・
・・・
 細かい問題であるという風な政府委員のお答えでありましたが、
思想善導に関しては既に貴族院において二荒伯が田中首相に思想善導の善とは何ぞやということを聞かれた時に、
きわめて簡単に正しく導くという風な御話でありました。
その正しくとか、善くとかいうことを申しましても、
校長の言う意味と、或いは文部省当局の言う意味と、青年学生の言う意味とは、そこに盛られる内容が違うのであります。
思想善導というのは具体的にお答えするならば、
学生には「ストライキ」をするな、
又工場労働者に対しても同じく「ストライキ」をやってはいかぬ。
小作人は小作争議などをやってはいかぬ。
こういう風に解してよろしいのでありますか。

◇安藤政府委員
 簡単にお答えいたしますが、工場の労働者に対する「ストライキ」という事と、
学校の生徒が校長や学校に対して「ストライキ」をやるという事とは、
非常なる根柢において意味の相違があるのではなかろうかと思うのであります。

(当ブログのコメント:この反論は論理的な反論とも思えます。もっと丁寧に論点を説明すれば、ディベートに勝てたかもしれない。以下の流れを見ると、ディベートに負けていますが、、、)

これを同一に混同して「ストライキ」はどこでも行われてよろしいというような事になっては
――そういう思想を抱いて居る者がだんだん多くなっては、
これこそ実に国民思想振作の為の大問題ではなかろうかと思うのでありまして、
私共はこういう質問がしばしばこういう席上に出るのをすこぶる遺憾とする次第である。

(当ブログのコメント:この発言は民主主義に反する立場の表明だと思います。山本宣治のような共産主義者(治安警察法違反)を弾圧するのが政府の仕事だと意思表明したものと解釈できます。)

〔「ヒヤヒヤ」「ノウノウ」と叫びその他発言する者多し〕 

◇堀切委員長
 諸君に注意致します。
静粛に顧いますが、しかし質問者のご質問或いはその言葉などによってなかなか委員長が努力しても静粛になりかねる事がありますから、ご注意を願いたい。
たとえば、昨日の横山君のご質問の如く、本議場ではだいぶ横山君は紛擾も起された事もありますが、
昨日は静粛に謹聴しておった(ヒヤヒヤ)というような訳ですから、
どうぞご質問なさる方においても静粛になるようにご注意を願いたい。 

 弘前の高等学校におきまして校長の非違を発見した生徒が大会を開いてこれを糺弾した所が、
その決議文を生徒主事がすぐ受取って焼払った。
そうして
その時に二十五日以後の学年試験に応じない生徒は二年三年以上は全部落第とし、
一年は全部放校するに決するという訓示があった
ということであります。
こういうような事実に徴しますると、
今政府委員の申された如く、温情主義的の教育がその学校の内に行われておらぬ。
今日における教育は「ブルジョア」資本主義の大量教育でありまして、職業教育である。
おのおの職業を得て立身出世をしよう、或いはとにかく一つの位地を得ようという為に、努力する、
その間に最小時間において最大の効果を挙げようとしてやる場合に、
学校というものは人格の陶冶をする機関ではなくして、
知識或いは職業的訓練を最も能率よく授ける機関であるとして学生は今日行っておる。
だから校長先生から人格的陶冶を加えて戴こうとは思っておらぬ。
その点において学校が学生の要求を満してくれないならば、
ここに種々の要求が起って来るのは当然の事である。
その要求を完全に満し得ないような学校がある。
ために学生主事という風ないわば一種の思想警察という風な制度を学校内に輸入して、
そうして何事ぞといえば放校に処するとか或いは落第をさせるとかいう風な事を言って、
学生をその圧迫の下に押しつけようとしておる。
これでは決して真の教育とは言えない……

〔此時発言する者多し〕 

 ◇堀切委員長 静粛に。


 殊に学生主事という風なこの「スパイ」の如きものを学校内に輸入したというのは、
もはや今の学校教育が情操とか或いは温情主義とか、そういう風なものには、立ち得ない
ということを自ら告白し来ったものである
とこう解釈して、
私はもはやこれ以上社会観或いは世界観の相違に基づく所の質問を打切ります。

(当ブログのコメント:この議論は山本宣治の勝ち逃げに終わったようです。民主主義国家ならば、もっとしっかり議論されただろうと思いますが、、、)


底本:
「現代日本記録全集12 社会と事件」
筑摩書房 1970(昭和45)年4月25日初版第1刷
底本の親本:
「山本宣治全集第八巻」
ロゴス書院 1930(昭和5)年 

この質問の2週間後の1929年3月5日に山本宣治は暗殺された。
死後に、 共産党員に加えられた。

-----------------引用おわり--------------------- 
 
  • 改正後の運用

 
改正から3ヶ月後には民政党の浜口内閣が成立し政権交替が起きます。
浜口政権は当初社会運動に対する取り締まりについて柔軟な姿勢*4を見せますが、1930年2月の第三次共産党検挙を機に挫折します。
同検挙においては共産党外郭団体に目的遂行罪が適用され、治安維持法の拡大の一端を示しています。
裁判の場でも目的遂行罪は存在感を示しました。
1931年5月20日の大審院判決では、当人の活動が結社の目的に合致すると客観的に判断できれば(主観的な意図がなくても)目的遂行罪は成立するとの判断がくだされます。
検察や警察による恣意的な運用が認められたも同然の判決でした。


---引用:治安維持法とゲーム規制--- 
治安維持法が
裁判所のチェックを外して犯人を逮捕しました。

治安維持法は、犯罪の理由を政治思想としましたので、
犯人の自白が必ず「証拠」として必要になりました。
児童ポルノの単純所持違法化法案も、
「性的な好み」
を犯罪の理由としているようですので、
治安維持法と同じで、「犯人の自白」が犯罪の「証拠」として必須になると思います。

「犯人の自白」を、刑事犯の証拠にした治安維持法は、
思想を取り締まるので、冤罪を生まないよう、
厳密な取り調べで犯人かそうで無いかの区分けをしたようですが、
それでも、かなり冤罪が多かったと聞いています。
児童ポルノの単純所持違法化法案も
治安維持法と同じ道を歩むと思いますので
反対です。

(単純所持規制法と治安維持法)
 念のため、児童ポルノの単純所持規制法と治安維持法とを対応付けておきます。

A:治安維持法 第18条 ① 検事ハ被疑者ヲ召喚シ又ハ其ノ召喚ヲ司法警察官ニ命令スルコトヲ得
検事が司法警察官に命令して逮捕(召喚)状を発行させる。
(中略)
③ 召喚状ノ送達ニ関スル裁判所書記及執達吏ニ属スル職務ハ司法警察官吏之ヲ行フコトヲ得
→司法警察官は裁判所の権限を持って逮捕(召喚)状を発行することができる。

B:児童ポルノ単純所持規制法
第六条の二(の要旨)
 自己の性的好奇心を満たす目的で、
衣服の全部又は一部を着けない18歳未満の男女の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するものを所持した者は、
現行犯人である。

(中略)

治安維持法は実質的に、裁判所を外して、警察官だけの独断で犯人を逮捕できたので、大きな弾圧を生みました。
治安維持法が行なった、裁判所を外して逮捕したという問題が、
児童ポルノ単純所持規制で、確実に存在します。

民主主義文化の先進国である欧米
(戦争中でさえ、捕虜の人権まで配慮しながら戦争するぐらい文化的な先進国)
が、単純所持規制を実施しましたが、
その結果は、、、
民主主義では後進国の日本の我々から見てもおかしい、と言えるような冤罪を多発させています。

「思想検事」(岩波新書)「荻野富士夫 著」
に、治安維持法が詳しく書いてありました。

(207ページ)
>治安維持法の特徴は、単に法的な処罰だけでなく、
>より広く社会的な処罰ないし威嚇としても機能したことにあった。
・・・
>国法にふれたという嫌疑をかけられるということは、
>倫理的には悪人、ひとでなし、信仰上からは罪人、
>非国民、はなはだしい場合、公敵、売国奴になってしまう。

児童ポルノの場合、痴漢冤罪と同様、社会的名誉や地位をなくすだろうと思われます。
児童ポルノを所持している=変態、変質者と社会から見られますから。

このように、児童ポルノ単純所持規制法案は、この治安維持法の効果と同じ影響があるので、
こういう点でも、
児童ポルノ単純所持規制法案と治安維持法は機能が似ています。

http://sightfree.blogspot.jp/2014/03/blog-post.html


このように「単純所持規制法案」と使い方が同じになった治安維持法は、
寿命がとても長かったことが特徴でした。
1880年に「集会条例」という名前で始まった治安維持法は、
結局、国家が転覆する1945年まで、65年間続きました。

しかも、無条件全面降伏したハズなのに、日本政府は、占領軍に逆らってまで、治安維持法を維持したいと抵抗をしたそうです。

弾圧法は、国家の悪事であるため、国民の復讐を恐れたのではないかと思います。
国民の復讐を恐れるというような悪法は、一旦成立すると、
国家が破たんするまで取り下げられることは無いように思います。
そういう悪法は成立させてはいけないと思います。

治安維持法の前身の「集会条例」に類似する規定もあるようですので、
児童ポルノ単純所持違法化法案などの、治安維持法と同じく
裁判所のチェックを外して逮捕するという、令状主義に反する法案には気をつける必要があると思います。


今の日本の公安警察は、戦前の治安維持法の実行部隊をそのまま引き継いでいるそうです。
警察には、今も、戦前の治安維持法を再現しようとする勢力が根強くあるそうです。
今も、戦前の治安維持法を引き継いだ憲法違反の治安律法が多数あり、
それらが戦前の治安維持法のように実施されていない理由は、ただ、

それ(治安維持法)に反対する多くの市民運動の存在だけが、
治安維持法の実施を抑えている、
きわどいバランスに日本があるようです。

「思想検事」(岩波新書)210ページに、以下のように書いてありました。
>だが、この治安体制の継承によってただちに戦前の状況が再現されるわけではない。
>それを許さなかったのは、破防法反対運動、そして60年安保闘争とつづく
>大衆運動の高まりであったし、
>いまも、かたちを変えつつ、ねばりづよく展開されるさまざまな市民運動である。
>つまりは戦後の民主主義の存在であり、
>それこそが戦前の再現を防ぐ最大の保障なのである。

現在の日本は、このように際どいバランスにあるようです。

安心な社会というのは、個々人の起こす問題を少なくする事と、
政治権力の起こす問題とを少なくすることで実現すると思います。
安心な社会を維持するために、
危険な「戦前の治安維持法」の実施と同様な体制を招かない事が
先ず第1に優先されると思います。
 -----------------引用おわり---------------------


1930年代に入り、治安維持法はその膨脹期に入ります。1928年から1940年にかけての検挙者数は6万5153人にのぼった一方で、起訴者数は5397名にとどまります。
治安維持法の運用においては、起訴・裁判を通じた処罰よりも身柄拘束に重点が置かれていたことが窺えます。
また31年から33年だけでこの期間の半分を占める3万9000人が検挙されますが、その背景には外郭団体への取り締まり強化がありました。
目的遂行罪を積極的に適用して、結社罪の適用が難しい外郭団体の摘発を行っていったのです。

 
他にこの時期には、大量増加する起訴されない検挙者を対象として転向政策の充実を目指した改正も試みられました。
司法省は思想犯の社会復帰を危惧し、予防拘禁も含めた協力な転向政策の実現を企図します。
予防拘禁の導入1934年改正案の中で司法省が最も重視した点の一つでしたが、特に貴族院で異論が噴出して同条項が削除されたため、小山内相らは両院協議会を開いて衆議院貴族院の対立を先鋭化させることで法案を廃案に持ち込みます。
不本意な法案が通過するよりもあえて廃案にする道を選んだのです。



 
さらなる拡大適用の端緒となったのが、1935年の第二次大本教事件でした。
公称40万人の信者が国家主義運動に参入することを恐れた内務省が取り締まりに踏み切ったのです。
本件は共産主義活動ではなく国家主義運動に治安維持法適用された唯一の事例であると同時に、
宗教団体への取り締まりが本格化するきっかけとなりました。
予審調書では出口王仁三郎が日本の統治者になることを目的としていたとの認定がなされ、内務省は「国体変革」の罪を大本教に強引にあてはめて宗教団体に治安維持法適用する前例を作ったのです。
その後仏教系・キリスト教系の団体が幅広く摘発されていきます。
しかしながら国家主義運動を対象とした取り締まりはその本丸である右翼団体に及ぶことはありませんでした。 
各団体が「忠君愛国」を掲げて天皇制を奉じている以上、警察は限定的な指導を行うことしかできませんでした。

 
前年の1934年の改正案では国家主義運動の取り締まりが争点になっていましたが、松本警保局長が右翼思想は共産主義と異なり体系化しておらず、思想として取り締まることが難しい。
テロを起こした右翼は一時的に集まったに過ぎず(恒久的な結社ではない)一時的の現象」であると答弁するなどし、結局右翼対策は盛り込まれませんでした。
またファシズム対策の一環として、1925年の成立時に削除された「政体変革」が政党の手で再度盛り込まれる可能性もありました。
しかし筆者は、自らの合法的政治変革の可能性を守るために規制対象から「政体変革」を削除した1925年の段階の政党に対して、1930年代政党は自らをテロから守るために「政体変革」を積極的に改正案に盛り込もうとしていたと指摘し、政党凋落を如実にあらわしていると述べています。

  • ここまでのまとめ

  内務省司法省法律と現状との間に齟齬を認めると、まず拡大解釈、ついで法改正を志向することで穴を埋めようとしました。
2度に渡る改正の試みは失敗しましたが、目的遂行罪を中心とした摘発の増加により、共産党・その外郭団体共に1935年までにほぼ壊滅します。
しかしその後も治安維持法適用対象を拡大し、宗教団体、学術研究会(唯物論研究会)、芸術団体なども摘発されていきます。
こういった適用対象の成立当初の目的を逸脱した拡大は思想検事たちも認めるところであり、だからこそ彼らは改正を志向しましたが、もはやその改正は誰かの政治的リーダーシップのもとに行われるものではありませんでした。
思想検事の一人・中村義郎は、「制度というものの通弊で、ひとりでに増殖していく」と回顧しています。

 
筆者によれば、最大の問題は政党凋落でした。1930年代の各党は政争に明け暮れ、治安維持法を制御できないばかりかそれに守ってもらおうとすらする有様でした。
また陸軍の台頭についても筆者は言及しています。
人民戦線事件の背景には陸軍皇道派の影響が指摘され、内務省陸軍との関係で運用に恣意的にならざるを得なかったのです。


*1:第1条で指定されている国体変革などの事項を目的とした協議を行うことに対し課される罪で、第1条より量刑は軽い

*2:ただし日本国内において治安維持法のみで死刑を執行されたケースは存在しない。治安維持法適用された中で起訴者が死刑を科され唯一のケースはゾルゲ事件だが、本件については治安維持法違反ではなく国防保安法違反を理由として死刑が科された

*3:もちろん無条件に発動できるわけではなく、公共の安全を保持し災厄を避ける目的であること、議会が閉会中であること、緊急の必要性があることが要件とされ、また事前に枢密院の審査を受け事後に議会の承認を受ける必要がありました

*4:学生検挙者への寛容な処置、合法的な社会運動共産主義運動の峻別、思想犯に対する取り扱いの改善

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