2015年11月3日火曜日

辺野古移設に機動隊少なくとも100人投入と「琉球処分」

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辺野古に警視庁機動隊100人 抗議激化に対応、週内にも配置
2015年11月1日 沖縄タイムス

■警視庁機動隊員が11月初旬から100人規模で辺野古の警備に当たる
■国の強行姿勢に対する市民抗議行動の激化・長期化を見据えた対応
■反対派は「琉球処分と同じ構図。暴力装置で声を圧殺するつもりだ」

 米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設をめぐり、警視庁の機動隊員が11月初旬から沖縄入りし、市民らの抗議行動が続く米軍キャンプ・シュワブゲート前などの警備に当たることが31日までに分かった。
複数の関係者によると派遣は少なくとも100人規模で、県外の警察官が辺野古で抗議行動に直接対応するのは初めて。
国の建設強行姿勢を受けた抗議行動の激化、長期化を見据えた対応とみられ、今週中にも配置される見通し。

 他県の警察からの応援部隊の派遣は昨年初夏ごろから続いているという。
だが、ゲート前などの抗議行動への対応はこれまで県警だけで当たっており、応援部隊は辺野古警備により人員を割かれた県警に替わって県内の他の重要施設などに配置されていたという。

 県警関係者によると辺野古での警備人員は、大規模集会や抗議行動の激化などが予想される際に現場の状況や情勢などを踏まえ対応を検討。
これまでの増員では、県内各署の署員が一時的に当てられたという。

 辺野古の新基地建設をめぐっては県と国の対立が続く。
翁長雄志知事は前知事による埋め立て承認を取り消したが、
石井啓一国土交通相がその効力を止める「執行停止」を決定。
10月29日には沖縄防衛局が埋め立て本体工事に着手した。

 県警の人員だけでは長期化が見込まれる抗議行動への対応は「限界」との判断から、県公安委員会が辺野古警備への応援部隊を要請したとみられている。
派遣された警視庁の機動隊員らは警察法60条に基づき、県警の指揮下で警備に当たる。

 警視庁機動隊員の沖縄入りについて、沖縄平和運動センターの山城博治議長は
「軍隊を引き連れた琉球処分と同じ構図。
また暴力装置で沖縄の声を圧殺するつもりだ」
と批判。
「運動は新しい局面に入る。県民にゲート前への結集を呼び掛けたい」と語った。

-薩摩の「琉球侵攻」、明治政府の「琉球処分」を振り返る-
吉田 健正

  「沖縄学の父」伊波普猷(1876~1947)が「組織的な倭寇」そして「一種の奴隷解放」と呼んだ二つの事件。
島津忠恒・初代薩摩藩主が慶長14年(1609年)、 
3千の軍勢を送って明国と主従関係にあった琉球を制圧し、薩摩の「付庸国(= 属国)」にしたのが琉球侵攻、伊波の言う「組織的な倭寇」である。
それから3 百年が経ち、琉球は明治政府の「処分」により解体されてまず「藩」に(1872)、 次いで一県とされた(1879)。
伊波によれば、薩摩統治下の琉球は「奴隷」ある いは「植民地」、そして廃藩置県は「奴隷解放」であった。

  沖縄では、昨年、薩摩の琉球侵攻(1609年)400周年、明治政府の琉球処分(1879年)から130周年を迎えて、
これらを改めて検証するシンポジウムが開かれ、新聞で長期連載されるなどメディアでも取り上げられた。
薩摩侵攻を「第一の琉球処分」、
明治政府に よる併合WP「第二の琉球処分」、
沖縄戦→施政権譲渡→米軍占領を「第三の琉 球処分」、
民意を無視した軍事基地つきの沖縄復帰を「第四の琉球処分」と呼ぶ 議論、
そして自民党政権の沖縄基地容認・日米地位協定容認政策を別の琉球処分ではないかという議論が相次いだ。
本稿では、「薩摩侵攻」と明治政府の「琉球 処分」に焦点を合わせ、これら2つの事件の後の沖縄を大雑把に振り返ってみよ う。
そこから、何が見えるだろうか。

◇◇狙われた対明貿易◇◇

  17世紀初期の小国・琉球は、海を隔てた明との冊封関係を保ちつつ、内乱を防 ぐため非武装化していたため、
火器を含む軍事力を備えていた薩摩軍にわずか12 日間で降伏した。
薩摩軍は国王・尚寧を重臣たちとともに「人質」として鹿児島 に連行し、
「如才なき薩摩の政治家は、王の一行を江戸見物につれ出し、その間に沖縄の土地並びに支那との貿易についての綿密な調査を遂げた」(伊波)。

琉球は、中国の権威を後ろ盾に国内平和を維持する一方、
安南(ベトナム)、 ビルマ(ミャンマー)、チベット、ネパール、朝鮮などと同様、中国皇帝に貢物 を献上して服従を誓い(朝貢・進貢)、
皇帝からの数々の返礼品を拝領するだけでなく、使節団を通じて貿易に従事していた。
いわゆる華夷思想に基づく中国を 中心とする東アジア秩序体制である。
琉球はこの体制をうまく利用して、日本( 幕府や、堺、博多など)、
中国沿岸(福州、泉州、広東、安南)から東南アジア ――ルソン(フィリピン)、シャム(タイ)、マラッカ、パレンバン(インドネ シア)――まで貿易を拡大し、
琉球が「万国津梁」(万国の架け橋)として「異産至宝充満」したという「大交易時代」の黄金期を迎えていた。

 薩摩はそれを狙ったのである。
現在は、幕府が、琉球を通じた対明交易復活という期待から島津氏に琉球を侵略させたという説が有力だが、
伊波(『沖縄歴史 物語――日本の縮図』、平凡社、1998)の言葉を借りると、
「島津氏の琉球征伐 の動機は、利に敏い薩摩の政治家が、
当時の日本は鎖国の時代であって、長崎以外の地では一切外国貿易が出来なかったにもかかわらず、日支貿易という密貿易 を営もうとしたのにある」。
そのため、薩摩は明国と冊封関係が続けられるよう にして琉球王国を形だけ残し、
貿易の利益を収奪しただけでなく、琉球そのものを疲弊させた……。

家康から琉球の支配権を与えられた島津氏
(徳之島、沖永良部、与論島などの奄美大島も薩摩の直轄領となった)は、
まず検地を行い、掟15条を定めた。
1611 年に完了した検地により、王国の所領(王家分+家臣の知行=領地)をおよそ9 万石(当時の薩摩藩の石高は約35万石と推定されている)と定め、
米、芭蕉布、 上布(のち黒砂糖も)などを年貢として上納させた。
島津氏はさらに、琉球王国 の守るべき「掟15条」を申し渡した。
「薩摩の御下知(命令)なき唐(注・明の こと)への誂物(朝貢品)は停止する(→朝貢品は島津氏が決める)」
「薩摩の 御判形のない商人の商業活動は許さない」
「琉球から(薩摩以外の)他国への貿 易船渡航を全面的に禁止する」
「年貢その他の貢物は日本(薩摩)奉行の定めた 通りに取納する」
「三司官(注:最高行政責任者)の権威を尊重する」
「現在官 職についていない者に知行を与えない」。
こうして、琉球は、薩摩支配の下で対 中進貢貿易を行うことになる。

◇◇沖縄民族を「蘇生」させた琉球処分

  それから300年。1871(明治4)年に廃藩置県を実施した明治政府は、琉球を鹿 児島県の管轄下におき、
翌72年には琉球国王を「藩王」とした。
琉球国を廃して 琉球藩にしたのである。
しかし、コトの重大性を認識しなかった王府が清との冊 封・朝貢関係にこだわったため、
1975(明治8)年に松田道之・元内務大丞
(だいじ ょう。現在の参事官クラスに相当?)
を「処分官」として琉球に派遣。
琉球が松田の説得に応じず、その後も清国との関係を断絶しようとしなかったため、
政府は、1979(明治12)年、松田率いる約600人の随員・警官・武装兵を琉球に派遣し、 武力で琉球の廃藩置県を断行した。

伊波は、明治42年、「進化論より見たる沖縄の廃藩置県」と題する論文で、
廃藩置県以前の琉球王国は閉鎖的で思想的に「栄養不良」だったが、王国破壊によ って琉球民族は「蘇生」した、と述べた。
そして1914(大正3)年には「琉球処分は一種の奴隷解放なり」という論文を発表し、
「琉球処分では、所謂琉球王国 は滅亡したが、琉球民族は日本帝国の中に入って復活した」と論じた。
二年後、 「琉球処分」すなわち沖縄の廃藩置県によって、「日本に於ける国民的統一の事業は全く完成を遂げた」と書いた。
琉球王国が消滅して日本という「近代国家」 に統合されたことを肯定的に捉えたのである。

伊波は、1947(昭和22)年七月に脱稿した「沖縄歴史物語」(『沖縄歴史物 語』所収)という論文でも
「著者は琉球処分は一種の奴隷解放だと思っている」
と記している。
しかし、
「いったん解放された小鳥が、長い間その自由を束縛していた籠を慕うて、 帰ってくるように、「三百年間彼等の自由を束縛していた旧制度を慕い、その回復を希(ねが)うて已(や)まなかったのである」
という言葉が示すように、琉球は「自由」を与えられたのが「迷惑」だった、あるいは島津氏の「搾取制度」に慣れ切って自立心を失っていたという。
「沖縄歴史物語」を改めて読んでみると、
伊波は、ここでは、「奴隷解放」という言葉を、沖縄人は 「退化の途を辿っていた沖縄人を進化の道に向かわせた」廃藩置県というせっかくの好機を逸した、という意味で否定的に使っている。

◇◇皇民化(同化)教育と沖縄社会の困窮化◇◇

  伊波が述べたように、琉球民族は廃藩置県によってほんとうに日本民族に統合され、奴隷の地位から解放されたのだろうか。
「琉球処分」のあとの沖縄には、 皇民化教育が待っていた。
王国体制のもとでの中国との冊封関係と日支両属から突然、日本に併合されて
「ウチナンチュー」(注・琉球は中国名)から「日本人 」にされた人々は、
「国体」の何かを知らず、
日本の文化・伝統・制度に通じていなかった。
そのため、中央政府はまず初代県令(知事)・鍋島直彬のほか主要県庁職員を派遣した。

鍋島(前肥前鹿島藩主)は、「言語や風俗を日本本土と同一 」にして沖縄住民に日本人としての自覚を促すことを急務として、学校の設立を進めた。
学校では、標準語励行、御真影遥拝、教育勅語重視などに見るように天皇崇拝・忠君愛国精神の育成に力を入れた。
第2代県令の上杉茂憲も教育に力を入れ、人材育成のため県費留学生を東京に派遣した。
社会的にも、旧来の身分制を廃して王と王子を華族に、士(サムレー)は士族にランクづけしたが、
士族の 大半(数千人)は無禄だったため、
「笠に顔隠ち(隠して)馬子(ンマグァ)曳ちゆさ(馬を曳いているよ)」
と歌われるほど、落ちぶれた。
平民となった百姓の暮らしはさらに苦しく、
借金を抱えて子供の身売りが後を絶たなかった。
県は、 男のカタカシラ(マゲ)や成人女性のハジチ(針突き=入れ墨)、
毛遊び(モウ アシビ=若い男女による野辺での夜間の歌・踊り遊び)、
ユタ(シャーマン)と いった旧来の風俗を禁じた。
日清戦争で中国が敗北したことにより、民心の中国離れ、ヤマト化(同化)にも勢いがついた。

1892年から約16年間にわたって8代目県知事として君臨した鹿児島出身の奈良原繁は、「琉球王」の異名をとるほどの強権ぶりを見せたことで知られる。
奈良 原のもとで、
「官吏、警官、教育者に鹿児島出身の者が著しく増加して、
沖縄人 の呼吸が再び苦しくなったのみか、
置県以来渡来した鹿児島小商人達は、時を得 顔に闊歩して、その経済界の一大勢力となっていた」
と伊波は書く。

一部上流階級を除く人々の暮らしは苦しく、
県は、困窮した砂糖農家を救済するため作付け制限の撤廃や新型機械の導入し、
農民の土地私有を認め,
軽便鉄道を導入するなどの農業振興策を講じた。
しかし、第一次世界大戦後に世界を襲っ た恐慌が招いた糖価暴落が直撃、
多くの人々は飢えをしのぐためソテツの実や幹 を食料としたが、きちんと毒抜きをしなかったため死ぬ者もいた。
いわゆるソテ ツ地獄である。
餓死を免れるため、多くの人がわずかの財産を処分し、
あるいは 親戚から借財してハワイ、南米、北米東岸、東南アジアなどに移住し、
阪神や京浜を中心とする工業地帯へ出稼ぎにでかけた。
1903年には、大阪・天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会の場外「学術人類館」で、2人の沖縄女性が「アイヌ 5名、台湾生蕃4名、朝鮮2名、支那2名、印度3名……」(当時の記事)などと共に陳列され、
「皇民」意識を強めていた沖縄県民の怒りを買った(「人類館事件 」)。

◇◇「皇民化」の先にあったもの◇◇

  次に沖縄を襲ったのは、戦争である。
日本政府(大本営)は、沖縄をどう位置 づけたか。
「帝国陸海軍作戦計画大綱」(1945年1月20日に裁可)は、
まず「皇土要域ニ於ケル作戦ノ目的ハ敵ノ進攻ヲ破摧(=破砕)シ皇土特に帝国本土ヲ確 保スルニ在リ」と規定した。
そして「国防要域……ハ本土の要域ヲ中核トシ其外 周要域タル小笠原、沖縄、台湾、東南支那沿岸、上海付近ノ空海基地ヲ前哨防衛 線トスル」と定義した。
沖縄は「皇土」の一部ではなく、本土決戦を回避するた めの「前哨防衛線」とされたのである。
沖縄であれほどの激戦が展開されたのは、 皇土と国体を守るためにほかならなかった。

伊波は、『沖縄歴史物語』の「小序」で
「沖縄は……太平洋戦争が勃発して、間 もなく日米の決戦場となり、遂に世界史上未曾有の大惨害を蒙るに至った」
と書 きながら、「廃藩置県=奴隷解放」との関連性を述べていない。

まもなく開かれる講和会議を東京で気にしながら見ていた伊波は、
絶筆となっ た「沖縄歴史物語」の最後に、次のように書いた。
「沖縄人はそれ(講和会議) までに、それに関する希望を述べる自由を有するとしても、
現在の世界情勢から推すと、自分の運命を自分で決定することの出来ない境遇におかれていることを 知らねばならない。
(中略)
地球上で帝国主義が終りを告げる時、沖縄人は『に が(苦)世』から解放されて、『あま(甘)世』を楽しみ、十分にその個性を生 かして、世界の文化に貢献できる……」

皇土防衛のための捨て石にされた沖縄は、
戦後、日本の安全と繁栄のため米国に供与された。
1947年に天皇が、宮内庁御用掛・寺崎英成を通じて、米国側に伝えたという
「沖縄……にたいする米国の軍事占領は、
日本に主権を残したままで の長期租借―25年ないし50年、あるいはそれ以上―の擬制にもとづくべきで あると考えている」
という趣旨のメッセージは、
米側が創作したのではないかと疑われるほど52年の講和条約第三条に似ている。
沖縄は米国に「租借」されたのである。
1972年の復帰以降も大半の住民の意思に反して日米安保を支えるという名目で治外法権化された米軍基地が居座り、
海兵隊員が日常的に戦闘訓練を行い、 
軍用機がすさまじい爆音を立てて離着陸を繰り返し、
あるいは中東の戦場に向かう。
明治政府によって奴隷から解放されたはずの沖縄は、
日本政府公認のもと、 チャルマーズ・ジョンソンのいう「基地の帝国」の軍事植民地になったという わけである。

 沖縄の「奴隷解放」はいつ実現するのだろうか。
あるいは、「基地助成金」と いう「アメ」に依存する限り、奴隷根性は抜けず、「ニガユ」からの脱却もあり 得ないのだろうか。
あるいは、沖縄人自身が「琉球処分」を未だに活用し切れて いないのだろうか。

       (著者は沖縄在住・元桜美林大学教授)

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