2015年10月14日水曜日

南京事件の証言

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南京攻略戦と南京事件[6]

「南京事件の日々―ミニー・ヴォートリンの日記」

 金陵女学院では1937年12月8日から女性や子供を中心とする避難民の受け入れを開始。
当初は中国軍の作戦行動で自宅を焼損・破壊された住民が避難し、日本軍の南京城攻撃が始まると激しい空襲と砲撃をおそれて避難民は増加し1,000人近くに達した。
 13日未明に中国軍が敗走し、日本軍が南京を制圧すると、空襲や砲撃は止んだが、日本兵による掠奪や住民への暴行・強姦の被害が報告されるようになり、ヴォートリンは女性や子供の難民を施設の容量にかかわらず無制限に受け入れるようにした。
強姦被害をおそれる若い女性を中心に金陵女学院の避難民はその後毎日増え続け、同月21日にヴォートリンはキャンパス内に6-7千人かそれ以上の避難民がいるのではないか、と推測している。

 また安全区内にあった金陵女学院にも12月13日以降毎日次々に日本兵のグループがやってきて、掠奪を行ったり、
中国人の使用人や女性を連行しようとしたため、ヴォートリンは報告を受けるたびにその場に駆け付けて日本兵を退去させるために奔走した。
この間に日記に記された主な出来事は下記のとおり。

 16日には金陵女学院に対する公式の査察(中国兵狩り)が行われ、ヴォートリンは100人超の日本兵がやってきて部屋を調べて回るのを案内し、
日本兵が中国人の使用人の腕をつかんで兵士として連行しようとするのを引き止めた。

 同日 日本兵のグループがやってきて中国人の使用人を連行しようとするのを引き止めた。
彼らは他の男性4人を縄でつないでキャンパス西の丘へ行き、そしてそこから銃声が聞こえた。

 同日 丘や街路から時折銃声が聞こえ、夜、少女たちがトラックに載せられて「助けて」と叫びながら通りすぎていくのを目にした。

 17日夜 キャンパスに大勢の日本兵がやってきて中国人の使用人を正門付近へ連行し、
尋問を装ってヴォートリンら学院の責任者を拘束している間に、通用門から女性12人が連行される、という事件を体験した。
日本兵が校舎に入るのを阻止しようとした際にヴォートリン自身も殴られ、また尋問に際して銃撃の恐怖にさらされた。

 18日 米国大使館を介して日本大使館を訪れ、自分たちの困難な体験や17日夜の事件について報告し、兵士を追い払うための書面を書いてもらった。
キャンパスを警備するための憲兵が派遣されるようになった。

 19日 教職員宿舎内で少女が強姦されている現場に駆け付け、兵士を追い払うという「ぞっとする話」を体験をした。

 20日 日本軍の高級将校らが視察に訪れている最中に日本兵2人が女性を連行しようとしたのを引き止めたが、
将校は兵士を叱責しただけで放免した。

 同日夜 昼間の視察の影響もあってか憲兵が25名も派遣されてきた。
その憲兵が女性2人を強姦する事件が起きた。

 21日 前日夜の事件を受け、日本大使館へ行って、憲兵の数を減らしてもらうよう要請した。
大使館へ往復する途中、中国人の使用人の父親が殺されたと聞いていたのを確認しに行き道路の中央に倒れている遺体を発見して遺体の場所を移し、
ジェンキン氏宅を見回りに行って宅内が掠奪を蒙り使用人が車庫で射殺されているのを発見した。

 24日には日本軍の師団の高級軍事顧問が訪れて避難民1万人の中から売春婦100人を選別することを要求し、
兵士が利用するための正規の認可慰安所を開設することができれば、強姦事件はなくなるだろうと説明し、21人を選別していった。

 同月22日頃には警備のため派遣されてくる憲兵との接し方や警備方法が安定したため夜間平穏に過ごせるようになり、
城内の兵士の数が減ったために日中に金陵女学院にやってくる日本兵グループの数は少なくなった。

 1937年末から、住民の中から中国軍の元兵士を選別するための住民登録が行われ、その過程で元兵士とされた多くの男性住民が連行され、行方不明となった。
ヴォートリンは、夫や息子を救ってほしいとの相談をその妻や母親ら多くの女性から受けて、
日本軍の南京占領当初からその後の住民登録の過程で日本軍に連行されて行方不明になっている住民についての申し出ベースのデータをまとめ、
2月初に行方不明者の資料を日本大使館に提出した。
一方で、日本軍政当局からは早期に避難民を帰宅させ、避難所を閉鎖するよう度々促され、
帰宅した避難民の強姦被害が相次いで報告されている状況を懸念しながら、避難所を縮小していくことになった。

南京安全区解消まで[7]

 1938年4月には、模範刑務所に元兵士の嫌疑をかけられた多くの民間人が入獄しているという情報を得て、収容されている民間人の釈放を求める嘆願書を作成し、多くの女性が嘆願書に署名した。
模範刑務所に勤務している日本兵を通じて入獄者の名簿と南京市政府公署の顧問を務める許伝音博士を通じて提出することにした。
嘆願書に署名するために、一日に数百人の割合で夫や息子が拉致された女性が金陵女学院を訪問し、ヴォートリンに彼女たちの身に起きた悲劇について語った。
釈放の嘆願書への署名者は同月9日には千名に達したが、
模範刑務所の囚人としての目撃情報があったのは10名程度に過ぎなかった。

 ヴォートリンは、模範刑務所に囚われている民間人を釈放させるため、ドイツ大使館のローゼン書記官に日本大使館への働きかけを要請し、
許伝音博士には上海の日本軍上級機関に請願書を送付してもらい、
南京市政公署の仕事をしている中国人に同公署の幹部の協力を依頼する手紙を書いたりした。
日曜の礼拝に参加していた或るクリスチャンの日本兵が模範刑務所の警備の任務につくことになったため、
入獄者の名簿と嘆願書にある男性の名前を照合して、一致する何人かの名前を教えてもらった。
ヴォートリンは、その夫人を連れて刑務所に面会に行こうと考えた。

 この頃、日本軍の南京攻略を前に周辺の農村に避難していた女性たちが城内に戻ってくるようになった。
しかし自宅が破壊されたり焼失している人がほとんどで、
金陵女学院の難民キャンプに収容を求めてきた。
南京国際救済委員会は既に5月13日をもって安全区の難民キャンプを撤去することを決定し、新たな難民を受け入れない申し合わせをしていたため、
救済を求めてやってくる女性の受け入れを断らなくてはならず、ヴォートリンは立ち去る女性たちの姿に胸を締めつけられた。
若い女性にはなお日本兵に凌辱される危険があるため、希望があれば受け入れようとも考えていた。

 春になり、南京城の内外に散乱する死体の腐乱が激しく、
病気の流行の原因ともなりかねなかったため、
慈善団体を動員しての埋葬作業が急ピッチで進められた。
ヴォートリンは、死体の埋葬にあたった紅卍会から埋葬数についての情報を得て、その記録を残した
(内訳となる民間人の死者数や、集計の範囲についても言及している)。
また農村地域に避難していた金陵大学の馬文煥博士が訪ねてきて、
避難先で強姦、殺害、放火、掠奪のすべてが行われ、
地方の警官が逃げた後は匪賊に苦しめられたことをきいた。
また長江河岸に沿って膨大な数の死体が埋葬されずに放置されており、
多くの死体が長江を漂って流れていたことをきいた。

5月になると、南京の中国人にも比較的離れた地方との往来が可能になり、
南京周辺地域で発生していた悲惨な被害の様相がヴォートリンにも伝えられるようになった。
また、この頃になると、日本軍の南京占領以前に家族のうち婦女子だけで近郊農村に避難して行った人たちが大勢南京に戻ってくるようになったが、
一家を支えていた男性が殺害されていたり行方不明になったりして、生活に困窮する場合もあった。

 5月になっても日本兵の蛮行は相変わらず続いていた。
2日の夕方、金陵女学院の門からそれほど遠くない場所で、一人の若い女性が日本兵に拉致された。
その場所はヴォートリンがちょうど15分ほど前に通ったばかりだったので、彼女は残念でならなかった。
9日の夜10時ごろ、三牌楼に住んでいた劉おばさん(50歳)の家に2人の兵士がやってきて、家のなかに2人の嫁がいるのを見つけて、なかに入れろと激しくドアをたたいた。
劉おばさんが拒絶し、憲兵を呼びに行こうと外に出たところを、兵士たちは彼女の顔を銃剣で斬りつけ、さらに胸部を刺して逃亡した。重傷を負った劉おばさんはまもなくして死亡した。 


【NNNドキュメント’15】南京事件~兵士たちの遺言~
<感想>
 南京で行われた虐殺を検証した今回の番組、緻密な取材と裏づけになる資料の掘り起こしで事件の姿が浮き彫りになったと思います。「事件そのものがなかった」という異説(私から言わせれば“珍説”)を真っ向から論破するに十分なものだったと思います。

<捕虜を殺害した元上等兵の日記と告白>

「捕虜せし支那兵の一部5千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃をもって射殺す。

その後銃剣にて思う存分に突き刺す。
自分もこのときばかりと30人も突き刺したであろう。
山となっている死人の上をあがって突き刺す気持ちは、鬼をもひがん勇気が出て力一杯に突き刺したり。
うーんうーんと呻く支那兵の声、一人残らず殺す。
刀を借りて首をも斬ってみた」

・投降した捕虜を殺害することは、国際法で禁じられていた。

調査をしてきた小野さんは日記を書いた男性に21年前にインタビューもしていた。

「機関銃を持ってきて捕虜に向かって撃った。

捕虜はみんな死んだが『弾に当たらないのがいるかもしれないから着剣して死骸の上を突いて歩け』と突いて歩いた。
おそらく30人くらい突いた。何万という捕虜を殺したのは間違いない」


南京事件「虐殺」の構造(増補版) 
/秦郁彦著  中公新書

 犠牲者が、たとえ何人だろうと「南京虐殺」はあった

「虐殺」とは、国際法に違反する捕虜や民間人の不法殺害「行為」をさすのであって、被害者数によって「虐殺」あるいは「大虐殺」だとか「虐殺でない」などという議論は、全くナンセンスな話だ。
 

 私も、自分の親の世代の日本人が、こんな蛮行を行ったとは信じたくない。
便衣兵(敗残兵)狩りとして、(状況的に市民もまきこまれたようだ)数万人の捕虜を国際法に違反して、違法に殺害したのは、ほぼ事実だ。

 私が許せないのは、婦女子に対する強姦行為が行われていた事実だ。
 

「・・・問題の家屋は天野郷三予備中尉(歩33連隊第8中隊長)と十数名の兵士の宿泊所で、かけつけた本郷大尉が天野の室に入ろうとすると、兵士たちが押しとどめる。
無理に入ってみると、天野が女と寝台に寝ていて、隣室にも3、4人の女がいた。
問いただすと、天野は連日あちこちから女を連行しては、部下とともに強姦していたことがわかった。」(178頁)
 しかも、この中尉は、
「弁護士であり、部下には法学士もいたという。」
結局、この天野中尉は、軍法会議にかけられ、旅順陸軍刑務所に服役したが、戦後、弁護士を再開し、昭和39年に没したという。

 もし、あの時の日本軍が、国際法を遵守し、南京市民の安全を確保し、捕虜を適切に扱っていたなら、、、

現代の日中関係は、もっと「まし」だったとうと思う。
誠に残念なことだ。
日本が、世界にはずべき「蛮行」を行ったことは、「水に流す」ことはできない。
贖罪としてではなく、未来に二度とこのような行為を行わないために、
他国から尊敬される国になるために、認めたくない歴史の事実から目をそむけず、
理性の目を持って、しっかりと向き合うべきだ。

あとがき P-244 より抜粋 引用

 日本が満州事変いらい十数年にわたって中国を侵略し、南京事件をふくめ中国国民に多大の苦痛と損害を与えたのは、厳たる歴史的事実である。

それにもかかわらず、中国は第二次大戦終結後、百万を超える敗戦の日本兵と在留邦人にあえて報復せず、故国への引き上げを許した。
昭和47年の日中国交回復に際し、日本側が予期していた賠償も要求しなかった。
当時を知る日本人なら、この二つの負い目を決して忘れていないはずである。 以下略

 何時の世も愛国的、勇ましい言辞を弄し声高に物言いする者は、昔も今も後を絶たない。

 維新この方憂国の先人達が、命がけで築いた「明治、大正」を三代目の跳ね上がりどもが、全てをダメにしたのだ。

 古来我が大和民族は「恥を知る」事を美徳と心得て世界に知られたものであり、またそれを誇りとして来たのである。

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