2014年9月6日土曜日

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『大正期の急進的自由主義』 
1972年12月

ファシズム前夜の政治論

古屋 哲夫

1 行詰り状態の認識
2 「自由討議の精神」と治安維持法批判

3 地方分権主義の提唱
4 政党・議会の改革をめぐって
5 ファッショ化のもとで

2 「自由討議の精神」と治安維持法批判


 問題は、国民の政治意識を高め、それを政治に向かって吸収し、組織してゆくためにはどうすればよいかという点にあった。のちにのべるような地方分権主義の提唱にしろ、議会・政党・選挙制度の改善策にしろ、『新報』にとっては、この問題に答えるための対策にほかならなかった。
 

 しかし、それらの対策が有効であるためには、その前提条件として、国民の間に、思想・言論の自由が広く確保されていなければならないと『新報』は考えた。

  すでに、1919年2月25日号の社説「デモクラシーの本質と少数代表」で、「デモクラシーは、一切の人民に一切の事柄に就て無批判の服従を強ひず、自由なる批評討論を許す生活である」と定義していた『新報』は、この思想・言論の自由のもとで広範な「自由討議」が巻き起こってくることが、デモクラシーを進 める基本条件となると考えたのであった。同時にそれは、暴力革命を避けて、社会の秩序ある進歩を実現する条件をも意味していた。


  『新報』が、暴力革命を避けるべきものと考えていたことは、大衆運動の盛り上がりを意識した時期に、普通選挙をもってその「安全弁」とみていたことにもあらわれているが(第6章参照)、しかし同時に、革命思想をも含めて、さまざまな思想が生まれ、あるいは外国から取り入れられてくることは、社会の進歩のために好ましいことであるというのが、『新報』の原理的立場でもあった。


  1920年2月7日号の社説「思想及言論の自由」は、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』によりながら、「思想及言論の自由の絶対に許されねばならぬ」ことを論じたものであるが、そこでは、つぎのようにのべられている。

 曽つて思想及言論を自由にした為めに亡びたも のがあつたか、又之を自由にした為め、悪思想悪言論が蔓つて、困つた社会があつたか。…其亡びたは、皆階級制度の為めではなかつたか、即ち多数者の思想言 論を自由にし、それに依つ社会の改造を絶えず図るの用意を欠いた為めではなかつたか、て而して其用意を欠いた為め、時代の生活に相応せざる悪思想が、いつ までも維持されてゐた為めではなかつたか。

 この考え方のうえに、第一次大戦後の事態が、予想されたほど急進的に進むことができず、妥協的にならざるをえなかったという認識が加わることによって、 『新報』は思想・言論の自由を軸としてはじめて社会は漸新的に発展することができるという確固たる信念をもつに至ったといえる。もちろんそこでは、『新報』のつぎのような共産主義観が、この信念をささえていたことには注意しておくべきであろう。
 プロレタリアの革命と云へば、大層おそろしさうに 耳に響くが、其実質は経済改革に過ぎない。それも今即座に、一切の産業を国営にするとか、資本家を無くするとか云ふのではない。露国は、現に左様の事はし てゐない。或は初めは為ようと思つたのかも知れぬが、其方針は放棄した。…されば今日の労農露国の経済組織なるものは、比較的日本などより国営産業が多い と云ふだけで、従来の経済組織と、別段大した差異はない。…果して然らば資本主義と社会主義との間の違ひも思想としては離れてゐても、実行としては、そん なに大げさに騒ぐ程の隔たりはない(大12・4・21、小評論)。

 こうした『新報』の立場からいえば、第一次大戦後、「思想問題」に過敏になり、「思想善導」・「思想取締り」に狂奔しようと する権力の動向は、その愚かさの点で笑うべきものであると同時に、
それがデモクラシーの進展を阻害し、国民の政治意識の行詰りをいっそう深めるという点で、
最も危険なものとして把えられることになるのは当然であった。
 

  『新報』にとっての、この危険な動向が最初にあらわれたのは、1922(大正11)年であった。
この年7月15日には、秘密裡に日本共産党が結成されるのであるが、
高橋是清内閣は、あたかもそれに先手を打つかのようなタイミングで、2月21日、貴族院に「過激社会運動取締法案」を提出した。
それは、
「第1 条、無政府主義、共産主義其他に関し朝憲を紊乱する事項を宣伝し、又は宣伝せんとしたる者は7年以下の懲役又は禁錮に処す」、
「第3条、社会の根本組織を 暴動暴行脅迫其他の不法手段に依りて変革する事項を宣伝し又は宣伝せんとしたる者は5年以下の懲役又は禁錮に処す」
という2つの条文を中心とするもので あった。
その直接の目的が、無政府主義・共産主義の弾圧にあったことはいうまでもなかろう。
 

  これは、『新報』の立場からいって見のがすことのできない法案であった。『新報』は早速、2月25日号の「小評論」でこの問題を取り上げた。そして2つの 観点からこの法案を批判した。すなわち、第1には、この法案の抽象的規定は「官憲の手心で厳にも、寛にも、勝手に解釈出来るものである。従つて推詰めれ ば、苟も無政府主義、共産主義、其他官憲の喜ばぬ思想、及社会の根本組織を変革しやうと云ふ提議は、此法律の存在する限り、浮かと口にも、筆にもすること は出来なくなる」―つまり、思想・言論の自由が全面的に禁圧される危険をもっていると批判した。そして、政府がサンガー夫人の渡日を阻止したことをあげ て、産児制限の主張も、「無政府主義・共産主義其他」の「其他」のなかにはいるようにみえるとつけ加えた。こんな法案が通ったら、それこそ「世界の大物笑 い」となり、「度すべからざる頑迷不霊の国」と評されるだろうというのである。
 

  もう1つの批判の観点は、
思想問題は思想間の競争にまかせるべきであって、権力の干渉すべきことではないとする点にあった。
そしてその底には、力による思想の抑圧は、長い眼でみれば、なんの効果もない無益のことだという見方が一貫していたように思われる。
たとえば、1921年2月26日号の「小評論」では、
日蓮生誕700年に際して、日蓮に対する思想圧迫にふれ、
しかしその圧迫にもかかわらず、今日日蓮宗が全国に流布していることを考えれば、「流布する も、せざるも、畢竟思想そのものゝ価値如何」にあり、
圧迫は何の効果もあげず、「後代からみれば、実に愚極つたことである」と断じているのである。
 一体、日本人ばかりではないか、無政府主義だの共 産主義だのと云ふと、何等内容も知らずして独断的に悪思想と批判してしまふ。此等の主義が全部其儘に佳良のものではないとしても、此等に対応する例へば官 僚主義、資本主義が又決して其儘に結構のものでないとするなら、独り無政府主義や、共産主義のみ、排斥することは、わからぬ話である。何故此等は全然悪思 想で、官僚主義や、資本主義は悪思想でないのであらう。何故一方は一瞬一刻も生存せしむべからずして、他方は自由に生存せしめて善いのであらう(前掲大 11・2・25、小評論)。

 そして、「畢竟、思想は唯だ思想間の優勝劣敗に依つてのみ淘汰せらるゝ」のであり、「法律に依つて一方を禁止する如き」は無 益にして危険であるとし、また「優勝劣敗に依つて思想の発達を図ること」以外に「思想は決して取締り得るものでもなければ、善導することの出来るものでも ない」(大11・3・11、社説「思想は思想を以て導くとは―唯其自由討究を許すに在り」)と批判したのであった。
 

  過激社会運動取締法案は結局、貴族院を通過しただけで、衆議院で審議未了となり、陽の目をみることなく終わった。しかしなんとか思想を善導し思想取締りを 実現しようという動きは根強くつづいていた。『新報』はこれに対して、さらに積極的に、思想問題に対しては「放任」こそが唯一の策であるとの主張をうち出 していった。
 我政治家には、まだ昔の封建的慣習がぬけず、国民 をば自分等に都合の好い思想で動かさうと思つてゐる。…けれども如何に我政治家が騒いだ処が、所詮国民の思想は国民の好む処で定まる。善導などと干渉すれ ば却つて混乱を甚だしくするのみである。思想善導の最も善い、而して唯一の策は、唯だ其自由討議を許すにある。放任思想善導だ(大11・12・9、小評 論)。

  しかし、この『新報』の徹底した思想・言論の自由の主張は受け容れられそうになかった。1923(大正12)年9月、関東大震災が起こると、それが革命思 想拡大の機会となることを恐れた権力の側からは、思想問題に対するなんらかの具体的対策を実現しようとする動きが強まった。11月には「国民精神作興に関 する詔書」が出され、「浮華軽佻の風」をいましめ、翌年には、この詔書の方向にそって、内務官僚の主導のもとに教化団体連合会が結成された。それは国民の なかに、「国体観念」をさらに強く植え込むことを目的としていた。

 

 『新報』はこれらの動きに対して、「自由討議の精神」を振興することこそが重要であることを繰り返したが(大12・10・27、小評論、11・17、小 評論)、さらに、清浦内閣が宗教家を集めて教化運動について協議するや、「思想言論の自由を許すことは即刻出来る、僧侶や神官を集めてゐる暇に、政府は此 事を考へて貰ひたい」(大13・3・1、小評論)とつめ寄ったのであった。
 

  衆議院に基礎をもたない清浦内閣はわずか6か月で倒れ、そのあとに、いわゆる護憲三派を基礎として加藤高明が首相の座にのぼったとき、『新報』はこの内閣 にデモクラシーの立場からある程度の期待をかけていた(第6章参照)。しかしこの期待は、1925(大正14)年2月、普通選挙法案と同時に治安維持法案 が提出されたことでみごとに裏切られてしまった。
 

  『新報』は治安維持法案の議会上程に当たって、この法案から「普選実施、日露国交回復等のため、一部権力者が多大の悪夢に襲はれてゐることを看取するに難 くない。今回提出せられたる治安維持法案は、斯様な権力階級の狼狽と自衛手段とを語るものとして永く我が社会に回顧せられる」ことになろう(大14・2・ 28、財界と事業「普選案の提出と枢密院、治安維持法案の提出」)と、この法案を位置づけた。そしてその内容については、「治安維持法は国家を危くす」と 題する社説(大14・2・21)をかかげて激しい非難を浴びせた。
 

  政府提出の治安維持法案は7条より成るものであったが、その中心は、第1条のつぎのような規定にみられた。
すなわち
「第1条、国体若は政体を変革し又は私有財産を否認することを目的として結社を組織し又は情を知りて之に加入したる者は10年以下の懲役又は禁錮に処す」
というもので、
この目的のための「協議」「煽動」等をも処罰の対象としたのであった。
これに対して『新報』はまず、
 之に依れば、苟国体及政体を変革し又は私有財産制 度を変壊することを目的とする結社運動は、其手段方法を論ぜず禁ぜられ、罰せらるゝのである。之実に我社会の改良を志す憂世家に取つて危険此上もなき法律 である、何となれば、仮令所謂共産主義、無政府主義を奉ずる者にあらずとも少しく私有財産制度の弊を論じ、議会政治に疑ひを抱くの思想家は、うかと寄合ひ でも催したが最後、官憲の認定により、直ちに重刑を課せらるゝ憂ひがあるからである。

として、全体的に反対した。
すでに私有制度について批判的な論調を示していた『新報』にとっては、それは他人事ではありえなかったのであろう
(たとえば大 8・10・18~11・1、三浦銕太郎「蓄積の管理について」、第12章参照)。
ついで、個々の禁止事項を取り上げてつぎのように論じた。
 

  まず第1の国体の変革については、政府はその意味を「天皇から主権を奪ふこと」であると説明しているが、そんなことを企てるのは狂人であり、「狂人の行動 は法律で制限し得るものではない」のだから、そんな者を相手に真面目になって法律を作るなどというのは「滑稽の沙汰である」とする。
もっともこの文面のか ぎりでは、『新報』も法律的な意味での天皇主権論にくみしているようにみえなくもないが、
『新報』の場合には政治にかかわりない天皇のあり方を当然のこと と前掲して、このように書いているのである。
この点については、あとでもう一度ふれることにしたい。
 

 第2の政体の変革については、政府側はその内容は立憲政体つまりは代議政体の否定を意味するというが、今どき「代議政体を否定する実行的政治思想」は世 のなかに見当たらないのだ、これは「ドン・キホーテ式法律」と呼ぶほかはないと批評する。
しかしさらに突っ込んで考えれば「立憲政体とか、代議政体とか云 ふものは、もともと国家民人の幸福の為に採用した制度に過ぎないのであつて、而かも其我国に採用せられたのは、ほんの昨今だと云ふ事だ。
それまで日本は専 制政体、封建制度であつたのだ。とすれば将来若し更に一層国家民人の福利に合致する制度が発見せられたならば、それに移ることが、何故に悪いであらう」。 
今日の政体が未来永劫に普遍であるというのは、立案者たちの「迷信」にすぎないと断じたのである。
 

  「第3の私有財産制度の擁護に至つては、更に又戸惑ひが甚だしい」と『新報』はいう。そして、この制度もまた「政体」の場合と同様に「社会の福利を増進する手段」であり、わが国において確立したのはようやく数十年前の明治維新からではないか。
「而かも其私有財産制度は今日に於て既に種々なる破綻を現し、何 れの国と雖も、それに或制限を加へぬ所はないに至つてをる。
暴行脅迫其他不法の手段に依るのを不可とするなら聞へるが、苟も私有財産制度を否認せんとすれば、之を罰すると云ふに至つては、全く歴史と世界の現勢とを無視せるものと評さねばならぬ」とのべているのである。
 

  この治安維持法に対する批評には、思想・言論の自由を基軸として社会の秩序ある進歩を促そうとする『新報』の基本的立場が鮮明に現れているといえよう。
 

  治安維持法は結局、禁止事項のうちから、「政体の変革」を削除した形で議会を通過し、1925(大14)年4月22日に公布された。
この法律が早速、同年 10月以後、京都をはじめとする学生社会科学研究会の弾圧に利用され、さらに共産主義運動を全滅させるための法的根拠とされたことは周知のところであろう。
『新報』は、このような治安維持法による弾圧の展開に、以後もながく批判的態度を持した。
 

  1928(昭和3)年の共産党大検挙(三・一五事件)ののち、同年6月、田中内閣は緊急勅令によって、治安維持法の最高刑を「死刑若くは無期懲役」とする改正を行なったが、このとき『新報』はつぎのように書いている。
 政府は、とふとふ我意を通して、治安維持法改正を 緊急勅令として枢府に提出した。之が憲法の大破壊であり、又事実に於ても何等の必要無き改正なるは、議論の既に尽きたる所で、今更詮議する要もない、…記 者は断言する。若し我国体を真に危険に導く者あらば、そは実に田中内閣であり、枢府であると(昭3・6・23、時評)。
  また1933年7月29日号には、「治安維持のため治安維持法改正の急務」なる社説をかかげ、私有財産否定を国体変革と同列に扱って厳刑をもって禁止していることを非難した。
そして「思ふに治安維持法に触るゝ青年の大多数は唯だ此の私有財産制度に対する懐疑の念から、不知不識赤化運動に同感せる者である。 
果して然りとせば記者は斯かる問題にて、尊き多数の次代国民を刑罰に触れしむる治安維持法を、我が国未曽有の悪法と云はざるを得ない」としたのである。
 

  この間、1928年4月28日号の社説「共産主義の正体―其討論を避く可らず」、29年3月16日号の「時評」などでは、共産主義は自由な討議のもとに あっては恐るべきものではないとの趣旨を繰り返し、思想・言論の自由を求めた。
また、三・一五事件直後の4月10日、労農党が解散を命ぜられると、 1928年4月21日号に「我国を赤化する者は誰ぞ」と題する「時評」をかかげて、つぎのように反対した。
 記者は平常決して労農党に同情を持つ者ではない。幾つかある所謂無産党の中では最も主張の生硬な、厄介な政党と心得てをる。が之は意見の相違である。それ故に記者は、労農党が無法に踏み虐げらるゝを善しとは考へない。之は法治国に住む者の正当な感情である。
  政府は、共産主義と云ふ文字で国民を威かし、以て此法治国に住む者の正当の感情を発露することを妨げてをるかに見ゆる。が若しも斯様に党員の一部に或思想 を抱く者があつたとして、其理由で政党の解散を強制し得るならば、いつか民政党が、或は政友会が、同様の解散を受くる危険が無しと云へるか。(他の政党 は)何故に国民の法律で認められたる結社の自由の為めに、起つて政府に抗議せぬか。
と叱咤しているのであった。
『新報』は、思想・言論の自由という点では徹底したブルジョア民主主義の立場に立っているということができよう。
しかし『新報』は、このような治安維持法を軸とする思想取締政策に対する批判のなかで、いわゆる「国体」の問題には正面から対決することを避けていた。
それは、既成の体制の枠内で漸次改革を実現してゆこうという『新報』の改良主義を示すものであり、『新報』が「国体」問題に無関心、あるいは無批判であったということ を意味するものではなかった。
 

  『新報』は、天皇の伝統的な権威を肯定する立場に立っていたが、天皇の力やいわゆる「国体」イデオロギーの力が政治のなかにはいり込んでくることを極力防止しようと努力していた。いわば、天皇は政治にかかわらないものという常識を、明治憲法のもとでつくろうとしていたともいえよう。
  たとえば、1924年3月8日号の小評論では、元老の減少、老齢化に対して、後継首相に関する御下問範囲を拡張しようという計画を「呆れた話」と一蹴するとともに、つぎのように書いている。

 我国に於ても若し憲政の常道がふまるゝなら、内閣更迭の際、次ぎの首相が誰なるべきかは一目瞭然、些の疑問を挟む余地はない。然るに其都度、上から御下問がなければならぬやうに思つてゐるのは、僣上のさたである。
 つまり、憲政の常道が確立されていれば、後継首相について天皇が元老の意見を求めることなどは不必要になるということである。そしてそこで、「憲政の常道」とは「憲法の精神と其運用の実際」ということだとする。
 憲政の常道…に依るときは、内閣が国民の代議府で ある衆議院に基礎を有するものでなければならぬは明白だ。いや、憲法の明文には、そんな事はないなど云ふは、三百的解釈だ、明文にはないと雖も、万機公論 に決するのが憲法の精神で、其公論を表示する機関が衆議院であるとすれば、そこに政治の重点の存すべきは、わざわざ断らずともわかつた事だ。
 いいかえれば、政党内閣制が明治憲法の精神なのはわかりきったことだと強調することによって、それを政治常識にしてしまおうというわけである。そうすれば天皇の政治的力も眠り込んでゆくにちがいないのだ。
  治安維持法制定にあたって、『新報』が「国体の変革」など企てる者がいないのに、そんなことを禁止するのは「滑稽」だとしたのは、このようなやり方で「国 体問題」を眠り込まそうとする意図を示しているように思われるのである。

したがって、「国体問題」が政治化することは極力防がねばならなかった。
1923年12月、山本内閣が、難波大助が摂政を狙撃したいわゆる虎の門事件で総辞職したとき、これに反対したのもこのような観点からであった。1924年1月12日号の「小評論」はいう。

  (山本)内閣は不思議の出来事の為めに失脚した。小評論子には実は、其不思議の出来事なるものが、とんとわけがわからぬのである。それが何うして内閣の寿 命を絶つ理由となるのか。若し真に此為め山本内閣が辞職したとするなら、小評論子は、それこそ狂人走りて、不狂人も亦走る狂態であると思ふ。
 また、朴烈・文子のいわゆる怪写真事件では、この問題で騒いでいる連中は、皇室を「政権奪取の材料に使」う「危険なる徒輩」であり、「それこそ法を以て 禁ずるが好い」というのである(大15・9・4、時評)。「さうだそれには良い事がある。例の過激思想取締法を改正し、次ぎの1条を加ふるのだ。皇室或は 国体を云々して他人を攻撃する者は、其攻撃する事柄の実否に拘らず、3年の懲役に処し、之を政争の具に供する者は10年の懲役に処すと」。
  つまり『新報』にとっては、取り締まらねば成らないのは、共産主義や無政府主義ではなく、「国体問題」を政治化しようとする勢力なのであった。この点に関 する『新報』の考え方をより明確に示したものとしては、治安維持法の緊急勅令による改正に際して書かれた1928年6月2日号の「時評」をあげることがで きる。

  ここでは『新報』はまず、もしわが国で国体の変革を企てる者があるとすれば、それは国体が彼らの生活にとって不便であるにちがいない、と考える。

 若し謂ふ所の国体が唯だ万世一系の皇室を戴くと云 ふことだけならば、何も彼等の生活に不便を与ふる訳はない。が、事実彼等が之を不便に感ずるとすれば、そこに何かの理由が無ければならぬ。而して記者は其 理由を、有らゆる方向に求めて、唯だ一つ発見し得るは、即ち此国体を私に濫用する一部少数者の存すると云ふ事だ。彼等少数者は、此国体を我私有物の如くに して、自己の位地自己の利益を擁護し増進する為めに勝手次第に利用する。
  その例としては、優諚に藉口して地位を保つ大臣や内閣から、国体を売物にして金銭をゆすってあるく浮浪乞食の徒まであげることができるとする。
 斯くの如くなれば、我国に於て国体の変革を企つる 者の生ずるを防がんとならば、其抜本塞源の方法は、先ず国体を私利に濫用する者を厳刑に処し、其跡を絶つにある。云ふ迄もなく、此法律が出来れば、諸政党 が国体問題で政権争奪を企つる如きは、最も重く罰せられねばならぬ。真に日本の国体を大切に思ふ者は、共産主義者を死刑にする勅令を出す前に、先づ国体濫 用防止法を作るべきだ。

  つまりは、国体を「万世一系の皇室を戴くと云ふだけ」の、生活に何の不便ももたらさないものにしようというわけであった。それはまさに治安維持法と正反対の立場ということができるであろう。

  しかし治安維持法の成立は、『新報』のこの意図がむなしくなり、思想・言論の自由の条件が失われたことを意味した。

事態は『新報』にとって著しく困難なも のになってゆくにちがいなかった。
しかし『新報』はなお、どんな枠のなかでも、可能なかぎりの改革を追及しようとしていた。
  もともと思想・言論の自由の問題は、国民の政治意識を高める「条件」ではありえても、政治への関心が低下し、政治意識が行き詰まっているという当面の事態 を打開する方法とはなりえなかった。

それのためにはより具体的な次元で、さまざまな方策が立てられねばならなかった。

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