2014年8月30日土曜日

Copy:第四章 大正デモクラシーと福井県民

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第四章 大正デモクラシーと県民
   第一節 第一次世界大戦と戦後社会
     二 第一次世界大戦後の社会
      「我等の服装を替えましよう」


  大戦中から戦後の大正後半にかけて猛烈な物価高騰が県民を苦しめるなかで、大正八年(一九一九)、民力涵養、勤倹力行の国民運動が県下の町村で提唱された(資11 一―二七五)。
大正十二年の関東大震災の後、国民精神作興に関する詔書が発布されると、勤倹奨励の行政指導が町村の末端にまでゆきわたるようになった(資11 一―二七七、二七八)。
そのころ、県下の高等女学校の制服として丹生郡立待村石田(鯖江市)産の石田縞という素朴な木綿織が大いに流行し、その縞柄で校名がわかるほどになっていた。
また小学校の女教員の間にもなかなかの普及を示し、処女会や青年会でも競ってこれを用いたのである。
その石 田縞の宣伝歌(写真141)をみよう(『大阪朝日新聞』大14・4・5)。

 流行した石田縞のセピア色の影像も広く残存している(福井県立藤島高等学校『百三十年史』、『大野高校八十年史』、『三高80年の回想』、『福井県立丸岡高等学校七十年史』、『丹生高校五十年史』)。


 当局が提唱した「消費節約・勤倹貯蓄」のスローガンは、都市化の進展による過大な消費需要を押えこんで輸入拡大と貿易収支の赤字を克服し、究極的には重化学工業化路線に産業構造を載せようとするが、成功の見込みはなかった。
はげしいインフレの中で、行財政当局はかつて経験したことのないほど物価対策に狂奔させられ財政政策や社会政策的対応に追いまくられる。
大正十五年、県の歳出総額は六年の四倍に膨張している(資17 第41表)。
物価騰貴による人件費や消耗品費その他諸経費の暴騰がその主因であった。
教員、警察官、県吏員に支給される特別手当は次年度の予算では本俸に繰り入れられる。
連年この繰りかえ しで、県官は緊縮を唱え議員は行政整理を訴えるのが県会恒例の討論となった(『通常福井県会会議録』)。
不況と物価高を背景として県内でも小作争議、労働争議などの社会運動が激化する兆候があらわれはじめていた(資11 一―二八〇、二八三、二八四、三二七~三三一)。
県当局は町村の末端を督励して、いわゆる「思想善導」対策をすすめて社会運動への警戒と抑制につとめたのである(資11 一―八四~一九〇)。
一方、すでに大正九年には福井市で公設市場が開設されて物価対策に取り組み、鯖江町では大蔵省預金部の低利資金を借入れて公営住宅が経営されて社会政策的施策が始動しつつあったが、
十一年五月、内務部 に社会課が新設され社会事業、社会教育が本格的に展開することになった(資11 一―七二、七三)。

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