2014年8月25日月曜日

農地改革法案(第1次)の経緯

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アメリカの「初期対日政策」

  第八八回臨時議会が開かれた1945(昭和20)年9月の初めから、米占領軍は日本各地へと次々と進駐していった。その主力は第八軍と第六軍からなる米 陸軍であり、当初、横浜に司令部をおいた第八軍が東日本、京都に司令部をおいた第六軍が西日本の占領を分担した。そして9月8日には、マッカーサー司令部 も東京に進駐した。
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  農地調整法改正案は、後に第一次農地改革法と俗称されるようになるものであり、
また松村謙三農相のイニシアティブのもとで作成されたこの法案は、日本側で自発的に立案された唯一の民主化政策と評さ れるものともなった。

松村の意図は、地主・小作制度を解体し自作農中心の農村秩序をつくりあげることにより、
食糧の増産と小作農の急進化の防止=農村の政治的安定をはかろうとしたものと考えられるが、
こう した新しい政策に農地調整法という古い形式を利用しようとしたのは、少しでも反対の口実を減らそうとしたものであった。
農地調整法は1938年に成立、
「農村ノ経済更生及農村平和ノ保持」を目的としたものであり、
地主による小作契約の解約や更新の拒絶を制限して、小作権に若干の保護を与える反面、小作官の権限を強化して小作争議を抑制し、
任命制農地委員会を設けて幹旋・調整にあたらせようとしたものであった。
松村はこの農地委員会を民主化し強化して、地主の土地の強制買上げを試みようというのであった。

  松村農相は当初、

不在地主の所有する全農地及び在村地主の所有する一町五反をこえる農地を買収する案を立てたが、
事務当局からその実現性の乏しいことを力説され、
結局、在村地主の保有限度を三町歩とし、11月16日の閣議に農地改革案要綱を提出した。

閣議でもこの改革案全体に反対する意見は出なかったものの、地主的立場は強く主張され、
地主保有限度をさらに五町歩に引きあげることで22日決定・発表され、23日の新聞に掲載された。

この三町歩から五町歩への保有限度の引きあげにより、
強制譲渡の対象となる在村地主の数は、大凡百万戸から十万戸に、小作地 は百三十万町歩から九十万町歩へと激減した
(農地改革記録委以会「農地改革顛末概要」、108頁)のであった。

  農地調整法改正法案はて12月4日衆議院に提出、5日の本会議に上程されたがその要点は次のようなものであった。


(1)不在地主の所有する全農地と、在村 地主の所有する五町歩をこえる小作地を譲渡させて自作農を創設する。
譲渡についての協議が整わない場合には、 農地委員会の裁定をもって協議がととのったものとみなす。
(2)小作料の金納化をはかり、現物小作料契約は金納契約に改定させる。
(3)地主の小作地返還 要求は市町村農地委員会の承認を必要とすることとし、耕作権の保護を強める。
(4)市町村農地委員会を任命制から選挙割に改め、地主、自作、小作の各階層 から5名づつの委員を選出・構成することとする。

  この法案は、予想されたことながら議会での執拗な抵抗に直面した

衆議院での審議状況は次のように報ぜられている。
「農地改革案については各派から質問 が続行されたが、質問に起った人々は原案に賛成なのか反対なのかを明確にしない。
政府の英断を多とするとか、農相の努力に敬意を表するとか言っているかと思ふと、すぐその後で所有権の絶対性を強調したり、 地主の迷惑を論じたりする。
衣の隙から鎧がちらついているのだ。
自由党の紫安氏は、土地の強制譲渡は憲法二七条の違反にあらずやといひ、所有権不可侵の原 則を掲げて政府に迫った。
これに対してつぎに起った社会党の平野氏は、所有権は義務を伴ふと断じて、その絶対性を否定した。
戦争責任追及決議には提携した自由、社会両党の性格が、こんな具体的問題にふれてくると漸次明確になってくる」
(朝日、12・7)。
議場の状況をみると、反対派も民主化の潮流の下では真向うから否決することはせず、
次の労働組合法案とともに審議未了に終わらせる作戦に出るのではないかとみられたが、

12月9日にいたりGHQが「農地改革ニ関スル覚書」を発したことによって情勢は一変した。

この覚書は
「小作人ニ対シ著シク不利ナル条件ノ下ニ於ケル小作制度ノ広汎ナル存在」を、除去すべき「顕著ナル害悪」と断じ、
来る1946年3月15日までに、

(1)小作人がその所肖にみあった年賦で農地を購入できるようにする計画、
(2)小作人が再び小作人の地位に転落しないよう保護する計画
などを含む農地改革案を提出するよう命じたものであった。

もはや、この第一次農地改正法案に抵抗することは無意味となり、延長さ れた会期の最終日に成立した。

しかも実際の農地改革は、この第一次農地改革法によってではなく、対日理事会の討議などにより、
はるかにきびしい内容のものとなった第二次農地改革法によって実施されることになるのであった。

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